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梅に歴史あり。土地に未来あり。

味わいを深める歴史の旅へ。

ここに、とても貴重な梅干があります。前々々回の申年に収穫されたもので、実に36年物。
縁起物として保存されているものです。これもまた、私たちが先人から受け継いだ伝承のひとつであり、
「申年の梅」に限らず、石神で穫れる梅のすべてが、時を越えた賜り物といえます。
そこで、今回は梅干の歴史を振り返りたいと思います。
どのような変遷を辿って、あなたのお手元にその梅干が届いたのか。
長大な背景を知ることで、一粒の味わいがいっそう深みを増すかもしれません。

神の力が宿る梅。

花から果実へ。薬用から食用へ。

 そもそも梅はどこからやってきたのか――。日本の梅には中国からの渡来説と、日本古来の原産地説とがあり、多くの文献において前者が採用されています。日本最古の歌集である『万葉集』では桜花を詠んだ作が42首であるのに対し、梅花は実に118首に登場。かつては桜よりも梅の花に人々が心惹かれていたということでしょう。

 花にくらべ、梅の実については資料が少なく、梅干が書物に登場するのは、平安時代のこと。丹波康頼の撰した『医心方』に薬として紹介されたのが初めてといわれています。

 平安時代には梅干にまつわるこんな逸話も残されています。村上天皇の治世に京で疫病が流行ったとき、六波羅蜜寺の空也上人が梅干を入れたお茶で病を治したという噂が広まり、村上天皇も元旦に梅干を落としたお茶を飲んだそうです。その際、申年の梅を用いたことから「申年の梅には神の力が宿る」といわれるようになり、現在に至るまで、申年の梅は縁起物として人々に愛好されています。

 その後、鎌倉時代には、梅の実の多くが梅干として食用に供されるとともに、薬用としても重宝がられましたが、この時代、紀州ではまだ梅の栽培は本格化していませんでした。平家の落ち武者と鎮守姫が出会って拓かれた石神の地に梅の花が咲くのも、まだ先の話です。

村上天皇も服したという故事から、大いなる福を招く縁起物として世に広まった「大福茶」。「申年の梅」に結び昆布を入れて飲めば、無病息災、健康長寿につながるといわれています。

災害を乗り越え梅が咲く。

花から果実へ。薬用から食用へ。

 いまでは梅の名産地として知られる和歌山県ですが、実は、梅の栽培が本格化したのは江戸時代から。梅や竹しか育たない「やせ地」は免租地になることから、田辺藩下で重税に悩まされていた農民たちが梅の栽培を始めたのがきっかけでした。すると想像以上に梅が育ち、これを知った田辺藩も梅栽培を奨励し、後には保護政策を取るまでになりました。『紀伊続風土記』(天保10年・1839)にも「梅各郡処処に多し、中にも海部郡仁義浜両荘の産、上品なり。霜梅(うめぼし)を多く製し出す」という記述があり、当時、既に19もの品種が存在していたことがわかります。

江戸後期の紀伊国(現在の和歌山県)の埴田梅林の様子◎埴田梅林「紀伊国名所図会」(帯伊書店蔵)
紀伊田辺藩初代藩主 安藤直次◎「安藤帯刀直次像」(和歌山県立博物館蔵)
明治の大水害後に植えられた、石神地区の梅の古木。様々な歴史が息づいています。

  時は下り、明治22年。大水害により大蛇峰が崩れ、石神地区の田畑が埋没するという大災害に見舞われました。人々はこの悲劇を乗り越えるべく、被害を受けた土地を改めて開墾し、梅を植えました。これが、田辺梅林の始まりです。

 従来はただの「やせ地」と思われていた石神地区ですが、多量のミネラルを含んだ黒潮の風を標高400メートルの大蛇峰が受け止めて土壌に染み込ませていくことや、高地ならではの寒暖差など、多くの面で梅づくりに適した土地だった ことが、後年、判明しました。

[上秋津杉ノ原]
写真師・柴田康太郎氏が撮影した、明治22年の水害時の写真。「災後八日に写真。山麓に在る人家はわずかに流れ残って存在せるものなり」という説明が付されており、当時の被害の様子を伝えている。
[芳養川流域被災図]
近世、田辺市では何度かの暴風雨、出水の災害が記録されていますが、明治22年8月18・19日の大風雨・大出水にまさるものはありません。この水害により大蛇峰の一部が崩落し、石神地区の田畑が埋没しました。

 明治40年以降には、日清・日露戦争における兵糧食として梅干の需要が急増。学校に通う子どもたちにも日の丸弁当が奨励されるなど、第一次梅干ブームとも呼ぶべき状況が到来します。

 やがて時代は昭和を迎え、石神邑の創業者である濱田武次郎は、東京の築地まで列車で梅干を売りに通いました。背負った樽の中身は「まるは 印の梅干」と評判を呼び、いつも完売したといいます。第二次世界大戦中にも軍用食として梅干は重宝されましたが、戦後の食糧難の時代にはサツマイモ等の栽培のため梅の木が伐採され、梅の栽培面積が著しく減少しました。

[昭和中頃の石神地区の様子] 初代の志を継いで、梅干を並べる箱にも「」印が施されていました。梅干の選別も地域の人々の手作業で。時代は移れど、想いは変わりません。

心新たに未来へ。

世界的な高評価。

 昭和30年代を迎え、日本経済が復興の兆しを見せ始めると、果実類の需要も増加し、梅の栽培も急速に回復していきました。高度経済成長期における食生活の多様化が梅の需要にも強い追い風となり、昭和35年ごろからは栽培面積が増加。優良品種の「古城」「南高」がこうした動きの牽引役を果たしました。 さらに昭和50年前後には「かつお梅」に代表される味梅が登場し、その食べやすさや味のバリエーションが歓迎され、消費率がアップ。第二次梅干ブームの到来です。その後、自然食品・健康食品の流行にともなって梅干の再評価の機運が高まり、梅干や梅酒のほか、多彩な加工品が市場をいっそう盛り上げました。

 以来、田辺市は国内における梅干の中心的な存在であり続け、みなべ・田辺地域の梅の年間生産量は日本全体の約6割を占める7.9万トン(2013年)にものぼります。また、養分に乏しい礫質斜面を存分に活用しながら、高品質な梅を持続的に生産しつづけてきた独特の農業システムは世界的にも高い評価を受けており、2015年には「世界農業遺産(GIAHS)」に認定されるという快挙を遂げました。

 梅干、そして石神の歴史について語るべきことは尽きませんが、大切なのは、先人たちから受け継いだこの素晴らしい土地と木々を未来へ手渡していくこと。同時に、変わらぬ美味しさを皆様に届け続けること。

 一粒、一粒に込められた私たちの思いを、ぜひ、ご家庭でお確かめください。

特集 変えないために、変えてゆくこと。